つれづれたまむし

しがない大学生の徒然なる雑記

生きるということ

僕たちは誰だって生まれた瞬間から何かを求められ続けている。
 
産まれた瞬間から生きることを求められ、そのために泣くことを求められ、それを満たせなければひっぱたかれる。
 
彼らには自分が生きることを欲しているか判断することなんてできない。
 
彼らは自分がなぜ生きるのか、何のために生きるかを考える暇もなく生きることを選択させられる。
 
そして、大抵の人はその生きる意味を知ることなく死んで行くのかもしれない。
 
自分はなぜ生きるかを知らず、生きている。
 
 
全ての物事にはやはり意味がある。
 
朝、家から出て、学校に向かうのは勉強するためだろうし、友達に会うためだろ。
 
朝、家から出て、会社に向かうのは仕事をして生活費を稼いだり、誰かの役に立てるように自分に価値を与えるためだろ。
 
今、ボクが座っているのはブログを書くためだし、疲れないようにするためだ。
 
僕が今日の昼にうどんを食べたのは、昨日の夜に食べすぎたからかもしれないし、うどんが安いからかもしれないし、もしかしたら僕はうどんが好きなのかもしれない。
 
そんなことはどうだって良いんだけど、
 
僕たちは自分で何かをする時には何かしらの理由を持って行動している。
 
もしも、そこに理由がなければ?
 
それはすなわち、何かを‘やる’のではなく何かを‘やらされる’
 
つまり、誰かのための行動をしていることになる。
 
つまり、誰かに求められることをしていることになる。
 
 
それって、本当に生きていることになるのかな?
 
本当に人生を生きているって言えるのかな?
 
 
よく、ガチョウはフォアグラを作るためにエサを胃に直接流し込まれるなんて話を聞いたりする。
 
それって、何かを食べているって言えるのかな?
 
ガチョウが湖をふらふら泳いで、ガチョウの前をうようよ泳いできた不幸な小虫を突っつく。
 
それが、ガチョウにとってのホントの食べるってことじゃないのか?
 
 
じゃあ、僕たちは本当に生きているのかな?
 
本当に生きるって何だろう。
 
これを生まれつき知っている人なんていないだろうな。
 
だって、自分から生まれた人なんていないし、
 
全員が生まれさせられたんだから。
 
だからこそ、僕たちは自分のうちから生まれる欲求のようなものを実現できるようにすることに全身全霊をかけるべきなんじゃないか。
 
自分のうちから生まれる感情に寄り添って生きるべきなんじゃないか。
 
何かをやりたい、何かが好きだっていう思いは、
 
まぎれもなく自分の中から生まれたものなんだから。
 
自分の内から生まれるものを大切にするってことが
 
自分を大切にするってことなんじゃないかな。
 
それによって、誰かの求めるものに答えられなくなったって大丈夫。
 
僕たちはただ“生きる”ことを目指せば良いんだろう
 
僕たちは本当に生きているんだろうか。

四葉のクローバーと僕たち

四葉のクローバーを見つける。


今日はきっと幸せがある。
今日はきっといいことがある。

そう思える。

四葉のクローバーを見つけた日は1日気分がいい。

四葉のクローバーを見つけた日は自分が世界で一番幸せだ。

 

でもよく考えたら

 

四葉のクローバーを見つけたらいいことが起きるなんてことはなくて、
四葉のクローバーを見つけたこと自体が幸せなんだって気づいた。

 

四葉のクローバーを見つけられる時間がある幸せ。
四葉のクローバーを見られる目がある幸せ。
四葉のクローバーを触れる手がある幸せ。

 

四葉のクローバーを感じられる自分がいる幸せ。

 

自分の価値は何だろうと思うことはあるけど、ただ、幸せな気分を感じるために生きてもいいんだって。

毎日嫌なことはあるけど、毎日辛いことはあるけど、
そんな自分だからこそ、
誰かを幸せにできるって

 

四葉のクローバーは、何百回も踏まれながら、見つけられることを待つ。


四葉のクローバーって三つ葉のクローバーが踏まれてできた傷から四葉になるんだよ。

 

傷ついた僕たちだからこそ幸せにできる人もいるよ。
傷ついた僕たちだからこそ笑顔にできる人もいるよ。

 

だから、明日もまた頑張ろう。

 

きっと、僕たちを見つけてくれる人がいるから。

 

これまでも何百回も踏まれて、これからも何百回も踏まれていくのかもしれない。

だけど大丈夫。傷ついた分だけ僕たちはたくさんの人を幸せにできるから。

 

明日も生きよう。

 

たまむし

秋夜の下のメイドさん

  最近大学からの帰り道にちょっとした楽しみがある。
有名な商店街を通るのだが、そこに、有名なメイド喫茶がある。
そのメイド喫茶では、僕が学校から帰る夕方に必ずと言っていいほどメイド喫茶の前にメイドさんが立っている。

  そのメイドさんを見るのが僕は好きである。
メイドさんメイド喫茶の中では最強の存在である。
それが、メイド喫茶の外、それも好奇の視線にさらされる場所にメイドがさらされている。
その状況に立たされているメイドさんの心境を想像するのが好きだ。
メイドさんの給与体制や労働環境に詳しくはないが、輝かしい世界を夢見て彼女たちはメイド喫茶の門をたたいたに違いない。しかし実際、今メイド服を着ているが、メイド服を着ることがメイドになる条件なのか。これが自分のやりたいことだったのか。そう、自問しているに違いない。

  いずれ、彼女たちはそのうち社会人として社会になじんでいくに違いない。その、おもてなしのスキル、演技力を生かして仕事をし、よい人と出会い、結婚し子をもうけ母になる。そうたどっていくかもしれない。
しかし、メイドとは何か、自分のやりたいことはこれなのかと考えていたあの夜は、例え彼女たちが社会人となった時にも、家庭を持った時にも、守るべきものがうまれたときにも彼女の心の中には一種のバグのように、ほどけることのない絡まった糸のように違和感を残し続けるだろう。

  それは、背中にのしかかる重りのように彼女たちを苦しめるようにも思えるが、それは、まさに彼女たちの存在意義を問い続けるための指針にもなりうる。

  

   僕たちにもそんな夜があるのか。自分の存在意義を考えるような夜があるのか。何かに追われて自分とは何かの問いから逃れてはいないか。

秋風に吹かれる夜もあっていいな。

たまむし

晴れた日に読むもの 青空の価値

今日は、まるで宇宙の裏側まで見透かせそうなほどいい天気だ。

 

ほんとにいい天気。

 

だけど、この青空をそんなに価値があるものだと思う人はそんなにいないし、

大体の人は、洗濯物を干せるな、とか出かけしたいな、ぐらいにしか思わないと思う。

 

やはり人は忙しい。

 

だからこそ、そんな青空の価値について考えたい。

 

今日が終わったって、青空はきっと明日か明後日かしあさってか、

まあ、一週間以内ぐらいには青空は、また見られると思う。

 

今日の青空を楽しまなくたって、感謝しなくたってまあいいや。

またこの青空を見たときでいいや。

と思ってしまう。

 

でも、よく考えたら、またこの青空を見られる保証なんてどこにもないし、

今日が青空を見る最後の日なのかもしれない。

 

青空は人間には再現不可能なもので、自然に見せられるほか見る方法はない。

 

曇っている今日にどれだけ青空が見たいと願って、何百億円を払って何億人が努力したところで青空を見ることは出来ない。

 

人生最後の日に青空を見れるかなんて、誰にもコントロールできない。

 

例えば、世界を救った大ヒーローの最期が雨の日の可能性だってあるし、世紀の大犯罪者の最期がどこまでも見渡せるような青空の可能性だってある。

 

 

そう

 

 

世界は平等だ。自然は平等だ。

 

青空の下で死ねるかは、その人が何の為に生き、なんの為に死ぬかにまるでよらない。

そして、世の中は青空のような平等を社会にも求める。

しかし、平等は人を苦しめる。平等は善人を苦しめ、悪人を助ける。
平等は人の足並みをそろえ、歩みの速い人の足かせとなり歩みの遅い人を引きずりまわす。

 


平等は善なのか?

 

平等は悪なのか?

 

 

その答えが何であれ、今日が晴れたことに感謝したい。

 

この幸せを、僕の好きな人が、僕の嫌いな人が、僕を好きでいてくれる人が、僕を嫌いでいてくれる人が同じように受け取っていたって僕の幸せが減るわけじゃないし。

 

自分の幸せを大切にしよう。それが、独り占めをするような幸せじゃなく、みんなに教えたくなるような幸せだったらいいね。

 

 

2人で見る青空は1人で見る青空よりもきっと、広くて大きいから。

 

たまむし

 

何の意味もない自己紹介

皆さんこんにちは。

たまむしと申します。

 

今、僕は愛知の大学の2年生です。

このブログでは、まだまだ、人間として未熟で不安定な僕が日常で疑問に思ったり、考えたことを気の向くままに書いていきます。

 

 

 

 

 

と、テンプレ通りの挨拶で今日は終わって、

明日からは、試行錯誤しながらブログをアップしていくので皆さん応援よろしくお願いします。

まずは、毎日投稿をして、10投稿を目指します。

 

Twitterもやっているのでそちらもぜひお願いします。

 

それではまた明日!