つれづれたまむし

しがない大学生の徒然なる雑記

晴れた日に読むもの 青空の価値

今日は、まるで宇宙の裏側まで見透かせそうなほどいい天気だ。

 

ほんとにいい天気。

 

だけど、この青空をそんなに価値があるものだと思う人はそんなにいないし、

大体の人は、洗濯物を干せるな、とか出かけしたいな、ぐらいにしか思わないと思う。

 

やはり人は忙しい。

 

だからこそ、そんな青空の価値について考えたい。

 

今日が終わったって、青空はきっと明日か明後日かしあさってか、

まあ、一週間以内ぐらいには青空は、また見られると思う。

 

今日の青空を楽しまなくたって、感謝しなくたってまあいいや。

またこの青空を見たときでいいや。

と思ってしまう。

 

でも、よく考えたら、またこの青空を見られる保証なんてどこにもないし、

今日が青空を見る最後の日なのかもしれない。

 

青空は人間には再現不可能なもので、自然に見せられるほか見る方法はない。

 

曇っている今日にどれだけ青空が見たいと願って、何百億円を払って何億人が努力したところで青空を見ることは出来ない。

 

人生最後の日に青空を見れるかなんて、誰にもコントロールできない。

 

例えば、世界を救った大ヒーローの最期が雨の日の可能性だってあるし、世紀の大犯罪者の最期がどこまでも見渡せるような青空の可能性だってある。

 

 

そう

 

 

世界は平等だ。自然は平等だ。

 

青空の下で死ねるかは、その人が何の為に生き、なんの為に死ぬかにまるでよらない。

そして、世の中は青空のような平等を社会にも求める。

しかし、平等は人を苦しめる。平等は善人を苦しめ、悪人を助ける。
平等は人の足並みをそろえ、歩みの速い人の足かせとなり歩みの遅い人を引きずりまわす。

 


平等は善なのか?

 

平等は悪なのか?

 

 

その答えが何であれ、今日が晴れたことに感謝したい。

 

この幸せを、僕の好きな人が、僕の嫌いな人が、僕を好きでいてくれる人が、僕を嫌いでいてくれる人が同じように受け取っていたって僕の幸せが減るわけじゃないし。

 

自分の幸せを大切にしよう。それが、独り占めをするような幸せじゃなく、みんなに教えたくなるような幸せだったらいいね。

 

 

2人で見る青空は1人で見る青空よりもきっと、広くて大きいから。

 

たまむし